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更新日:2021年10月1日

企画展「さつまの金吾さあ~さつま町と島津歳久~」

時期

2021年7月13日(火曜日)~11月28日(日曜日)

※当初の予定より開催期間を延長します。

場所

宮之城歴史資料センター

〒895-1811
鹿児島県薩摩郡さつま町虎居5228番地

電話(ファックス):0996-52-3340

開館時間:午前9時から午後5時まで(入館は4時30分まで)

休館日:月曜日(月曜日が祝祭日の場合は翌日)

入館料
一般:220円(160円)
小中高生:110円(50円)
未就学児:無料
※()内は20名以上の団体料金

チラシ

 

島津歳久とは

島津歳久は、天文6年(1537年)に島津貴久の4人の息子の3男として生まれました。兄は義久と義弘、弟は家久です。祖父である島津忠良(日新公)は4人の孫をそれぞれ「知勇兼備の名将」と評してますが、歳久についてはさらに「周囲の利害を察するの智計に並ぶものなし」とほめています。歳久は天文23年に姶良市の岩剣城で初陣を飾って以来、島津家の武将として九州各地で転戦しました。天正3年(1575年)には京都へ行き歌学を学んでいます。天正8年(1580年)には祁答院12ヵ村を所領とし虎居城を居城としました。

豊臣秀吉の九州攻め

天正13年(1585年)に島津氏は豊臣秀吉の和議の勧告を拒絶したため秀吉軍と戦うこととなり歳久も豊後の白仁城に入りましたが中風(脳卒中後の半身不随)によりようやく宮之城へ帰りました。島津義久は天正15年(1587年)に九州を南下する秀吉軍に対して降伏を申し出ました。秀吉と義久は薩摩川内市の泰平寺で会見して講和しました。その後秀吉は川内川を上流に向かって進軍し宮之城に滞陣しようとしましたが歳久はこれを拒否して山間の険しい道を行軍させ鶴田の太閤陣へ向かわせました。歳久は病を理由に秀吉には会わず兄義弘が太閤陣で秀吉から大隅の所領を安堵されています。この時の態度はのちに秀吉が歳久を自害させた要因の一つとなったとされています。

 

松永南楽画「秀吉の遭難」

松永南楽画「秀吉の遭難」(宮之城歴史資料センター蔵)

 

島津歳久の最後

文禄元年(1592年)に秀吉は肥前名護屋城を拠点として全国の大名に命じて朝鮮半島に出兵しました。この時梅北国兼が佐敷城で謀反を起こしましたが、歳久の部下も加わっていたということで九州攻めの時の態度もあり、秀吉は義久に歳久を殺すように朱印状を下しました。義久は歳久を鹿児島へ呼び出し歳久が帰る途中の竜ヶ水に兵を配しました。歳久のお供も討ち死にし、歳久も腹を切りました。歳久の首は肥前名護屋城で秀吉の首実検を受けてから京都の一条戻橋に晒されました。この時京都にいた歳久の従兄弟でのちの宮之城島津家2代忠長はひそかに首を持ち去り今出川の浄福寺に葬りました。

歳久公への信仰

義久は歳久の49日の法要を島津家の菩提寺である福昌寺で行いました。慶長4年(1599年)に秀吉が亡くなると竜ヶ水に曹洞宗滝水山心岳寺を建立して歳久の供養を行いました。戦前までは歳久の命日である旧暦7月18日には「心岳寺まいり」として県内各地から参拝者があり、盛大な一大行事でした。また各地で歳久をまつる「金吾さあ講」が行われておりさつま町にも資料が遺されています。さつま町内にも各地に屋地の島津金吾歳久の供養塔や中津川の大石神社をはじめとして各地で歳久をまつっています。歳久は自害する際に石で腹を切り「女のお産もこのように苦しいものであろう死後は女のお産の苦しみを助けてやろう」と言ったという伝承から「お石さあ」ともよばれお産の神様としても信仰されています。

 

島津歳久等の供養塔群

島津金吾歳久等の供養塔郡(さつま町宮之城屋地)

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お問い合わせ

さつま町役場社会教育課文化係

〒895-1804 鹿児島県薩摩郡さつま町船木302番地

電話番号:0996-53-1732

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