永野金山産業遺跡群

更新日:2023年05月16日

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永野金山

永野金山は、寛永17年(1640年)に発見されてから島津藩の屋台骨として盛衰を経て、昭和28年(1953年)の閉山まで300年余りにわたり金を算出してきました。

紹介動画

広報さつま平成30年4月号の「永野金山特集」にあわせて、地域おこし協力隊の川西さんが紹介動画を作成しました。ナレーションは、平成29年度永野小学校子ども語りべ隊の皆さんです。

西郷菊次郎(第8代鉱業館長)

西郷菊次郎(第8代鉱業館長)の写真

西郷隆盛の長男。台湾宜蘭庁長、京都市長を経て、明治45年(1912年)から大正8年(1919年)まで第8代館長就任。鉱業館夜学校を建て金山幹部養成にあたり、その後幾多の人材を輩出した。文武両道の人材育成に当った氏の功績をたたえ、毎年「西郷菊次郎顕彰剣道大会」を開催しています。

胡麻目坑口(ごまめこうぐち)

胡麻目坑口を正面から見た白黒写真

(写真:尚古集成館蔵)

明治37年、島津家は金山の大拡張を計画し、工学博士五代龍作(五代友厚の娘婿)を鉱業館長に任命し、82万円の予算で次の計画を作った。

  1. 胡麻目大通洞(六抗道)の切り拡げと掘進
  2. 晒(さらし)及び三番滝両堅抗の開作
  3. 水天渕(天降川上流の妙見)に水力発電所の建設
  4. 三番滝(完焼)に電力による製錬所の建設

第一堅抗跡

第一堅抗跡の坑口の写真

今も選鉱場跡と呼ばれている。搗鉱所があり、用水は九郎太郎川上流の国見(旧栗野町)より取水した。坑口は、今も残っているが危険なため立ち入りできない。この先には、土で区切られた火薬庫の跡が残されている。

九郎太郎橋と平八重川橋

トロッコの鉄橋跡の写真

胡麻目坑口から三番滝製錬所までレールを敷設し、鉱車が通っていた。この間にある二つの川に高い橋が架かっていた。

九郎太郎川の橋脚は高さ24メートルで切石積みであり、最初は木橋であったが、大正3年(1914年)に鉄橋に架け替えられた。

閉山後解体されたが、橋脚は残っている。

安養院年行寺跡

安養院年行寺跡を上空から見た写真

三國名勝図会によると開山明巌和尚(寛文元年寂(1661年))とあることから幕府が金山の一時閉鎖を命じた頃には、お寺があったと思われる。元録元年(1688年)ここの琉球僧より水車搗鉱法の伝授を受け、利用が始まる。(それにより、金山の発展に貢献してきたと思われる。)

また、夢想谷にある徳源社内の金山創業記念碑は、明治の初めの廃仏のとき、ここから移されたとある。

三番滝製錬所跡

かつての三番滝製錬所を山の上から見た白黒写真

明治37年(1904年)金山の電化大改造によって作られた搗鉱所は、大正15年2月13日火災により焼失してしまった。

胡麻目抗から搬出された鉱車を反転して落とした鉱石を大割小割の砕石機でバラス状にし、ベルトコンベアで貯鉱所へ運び、大型のボールミルで泥状にし、泥水と水銀を塗った亜鉛板に流し、金を水銀に吸着させて採金し、分析所で金塊にした。

また、ここには、鍛冶屋、鋳物工場、木工場、製材所、分析所、変電所、化成工場などもあった。

金山案内マップ

金山案内マップの画像

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