記念物史跡

更新日:2023年03月22日

国指定文化財

1.鹿児島島津家墓所(令和2年3月指定)

鹿児島島津家墓所の写真

江戸時代、鹿児島藩を治めた藩主島津宗家と宗家に次ぐ家格の「一門家」(越前(重富)島津家・加治木島津家・垂水島津家・今和泉島津家)、一門家に次ぐ家格の「一所持(いっしょもち)」から宮之城島津家の合計6家7箇所の墓所からなる近世の武家墓所です。

宮之城島津家の墓所には、2代忠長(ただたけ)から14代久寶(ひさたか)までの当主親族の墓33基と江戸時代最後の当主15代久治(ひさはる)以降の納骨式の墓1基、島津家の由来から4代当主久通(ひさみち)までの功績が記された亀趺碑(きふひ)などが残っています。

中でも石廟(せきびょう)と呼ばれる祠(ほこら)の形をした巨大な墓石が整然と並ぶ姿は圧巻で、墓石に彫られた見事な彫刻は、見る人を楽しませてくれます。

墓石に彫られた主な彫刻

墓石に彫られた竹の彫刻の写真

墓石に彫られた馬の彫刻の写真

墓石に彫られた蕪の彫刻の写真

墓石に彫られた魚の彫刻の写真

墓石に彫られた犬の彫刻の写真

墓石に彫られた弓と箙の彫刻の写真

弓と箙

県指定文化財

6.鶴田町大願寺跡墓塔群(開山堂跡・薬師堂跡)(昭和62年3月指定)

大願寺(天台宗→臨済宗)は、鎌倉時代後半から地頭としてこの地に定住し、勢力を拡げた祁答院氏の菩提寺であったことから、寺跡には開山堂跡と薬師堂跡があり、祁答院氏歴代の墓塔、供養塔や住職の墓塔が多く建てられています。大願寺は江戸時代の初期、鹿児島藩主島津光久のとき鹿児島城下に移され、やがて南泉院と改称され、現地鶴田町柏原では廃寺化していきました。

開山堂跡

開山堂跡の写真

開山堂跡には、祁答院4代平次郎行重(行意)、5代次郎左衛門尉重実(行祖)の墓塔をはじめ、亨徳2年(1453)・永正12年(1515)・天正年(1578)・慶長16年(1611)などの刻銘のある墓塔が約20基ほどあります。

薬師堂跡

薬師堂跡の写真

薬師堂跡には、祁答院氏7代重茂(行誉)・8代久重(行勇)・9代徳重(行仙)・11代重貴(行應)・12代重武(行登)・13代良重(行鉄)らの歴代領主の墓塔と大願寺歴代住職の墓塔合わせて約40基あります。これらの暮塔群関係文献(「祁答院記」、「斑目文書」、「祁答院旧記」、「五山文学新集」)等とあわせて鹿児島県の中世の歴史を解明するうえで、重要な文化財です。

7.薩摩町永野別府原古墳群(昭和46年5月指定)

永野別府原古墳群の写真

別府原古墳群は、薩摩町永野の川内川支流の穴川右岸で標高160メートルの緩やかな傾斜地にあります。
農作業中に発見され、昭和44年(1967)に発掘調査が行われ、6世紀頃の地下式板石積石室墓が6基確認されました。地下式板石積石室墓は地下に竪穴を掘り、安山岩または扁平な河原石10~14個を用いて円形または方形の石室を設けて死体を安置し、土をかぶせ板石で覆った後、さらに全て土で埋めてしまい地表に標識を残さない南九州独特の埋葬法です。
石室の内径は110~157センチメートルで屈葬と思われ、頭位にあたる石室の部分には丹塗りのものもあります。副葬品は全て武器で、短剣、長剣、鉄鏃等が1号墳、3号墳、6号墳から確認されています。この種のものは、熊本県南部から川内川流域に分布の中心があり、群集墳を形成するのが特色です。(平成14年発行・かごしま文化財事典(205頁)から)

町指定文化財

18.大道寺歴代住職の石塔群(平成17年1月指定)

大道寺歴代住職の石塔群の写真

この石塔群は、正保元年(1644)に京都妙心寺の末寺として島津久通が建立した少林山大道寺に関係する歴代住職等の墓石塔です。大道寺は、江戸時代の三国名勝図会にも記載されており、寺の配置は、帝釈天公園の南西側の下の台地に配置されていたと思われます。石塔群は、帝釈天公園の西側中腹にあり、墓石25基、石灯籠7基があります。年号が確認できる石塔で最も古いものは、延宝7年(1679)と刻まれています。正保元年(1644)に京都妙心寺の末寺として、建立された少林山大道寺で生活をした僧侶たちのお墓です。少林山大道寺は島津久通が建立し、江戸時代の三国名勝図絵にも紹介されています。

19.宗功寺歴代住職の石塔群(平成17年1月指定)

宗功寺歴代住職の石塔群の写真

宗功寺は、慶長年間(1596~1615)に宮之城島津家2代忠長が、京都大徳寺の臨済宗妙心寺の末寺として建立したとされています。寺そのものは、廃仏毀釈により取り壊され現存していませんが、県指定文化財である宮之城島津家歴代の墓地と、歴代住職の墓石等が現存しています。

22.島津金吾歳久等の供養塔群(平成17年1月指定)

島津金吾歳久等の供養塔群の写真

島津金吾歳久の供養塔は、宮之城屋地城之口に有り、宮之城島津第5代久竹の長女慈光院が正徳2年(1712)屋地城之口の昌英寺境内(現公民館前の地)にお堂を作り、中に歳久の供養塔を建立しました。現在も毎年供養がなされ、管理がされています。島津金吾歳久公は、本町の歴史上の人物では、最も知られ、親しまれています。

25.権太郎石(昭和47年2月指定)

権太郎石の写真

鶴田ダム上流3.2キロメートルの左岸にあります。昭和39年から始まった鶴田ダム建設中、川内川で発見され、ここに引き上げたものです。その時、ひびが入ったようです。天保13年(1842)の川ざらえ工事のとき、石工・権太郎の業績を讃えた刻字があります。鹿児島市小野町の福永権太郎の名があることから、権太郎石と呼んでいます。近年、文字は風化し、僅かに刻字が残されています。

26.神興寺僧侶の墓石塔群(昭和47年2月指定)

神興寺僧侶の墓石塔群の写真

紫尾神社の手前、約600メートルの県道鶴田定ノ段線沿いにあります。中世から江戸時代にかけて、紫尾山神興寺の僧侶の墓石や逆修塔があります。古のものは、応永22年(1415)の芸全僧正の墓石で、最大のものは中興した憲春法印の逆修塔です。上段には、復興に尽力した快善法印の墓石があり、中段や上手にも僧侶の墓石があります。

27.快善法印入定の碑(昭和47年2月指定)

快善法印入定の碑の写真

紫尾神社鳥居の手前、ちどり荘の宅地内にあります。宮之城神照寺住職を退いていた快善は、乞われて紫尾山神興寺の住職となりました。快善は知徳に優れていたので、人々の信仰をあつめ、紫尾山神興寺の復興に尽力しました。快善は、不思議な夢の知らせにより、仏前に帳を設けて断食・勤行し、元禄14年(1701)7月21日、68歳で入定、9日13日に没しましたが、その快善の業績を弟子3人が碑に残しています。

31.方柱石塔婆(昭和47年2月指定)

方柱石塔婆の写真

祁答院4代行重が、自分の生前の健康と死後の安穏を祈願して、薬師如来と阿弥陀如来の種子梵字を刻んだ方柱の塔婆を建てたものです。建武元年(1334)4月に薬師如来を、7月に阿弥陀如来を建てたとされています。

32.首塚(昭和47年2月指定)

戦没者の霊を供養するための塔の写真

応永8年(1401)に、「鶴田合戦」と言われる鶴田重成・島津元久と澁谷四族・島津伊久との争いが起こり、鶴田の田間田を中心に激戦がありました。そのときの戦没者の霊を供養するために30人ほどの僧侶がこの塔を建てたと言われています。

33.町石(昭和53年2月指定)

町石の写真

永禄6年(1563)~9年(1566)の頃に紫尾山神興寺から種子田の古紫尾神社までの約1里(約4キロメートル)の間に、紫尾神社までの道標として信者・僧侶・山武士らが寄進したものです。1町(約100メートル)毎にあったとされていますが、廃仏棄釈のとき破壊されたとされており、方柱の梵字や造立年月日、寄進者等が削除され、上部の空・風・火部が紛失しています。現在は10基ほどしか残されていません。このような町石は、九州では例がなく、和歌山の熊野大社には、大型の町石が建てられています。

34.空覚塔(昭和53年2月指定)

空覚塔の写真

紫尾権現社と紫尾山神興寺を建てた空覚上人をたたえた石塔です。伝えによると、空覚上人が紫尾山で修行中、夢想により「我は当所の大権現なり。汝を待つこと久し。我が為に社寺を建て、三密の旨を修し、大乗の法を広めよ」と告げられ、山を下りて霊域を定め、紫尾権現社と紫尾山神興寺を建てて、この地を開いたということです。そのことから「切開殿」(キイアゲドン)とも呼ばれています。後世の人たちが建立した供養塔で、町内最古の石塔と推定されています。

35.湯田原古墳(昭和53年2月指定)

湯田原古墳の写真

昭和31年(1956)ごろ、当時京都大学考古学教室の研究生であった原口正三氏によって古墳であることが確認され、昭和53年に鶴田町によって調査が行われました。その結果、鉄刀や鉄剣、鉄鏃が出土しています。

36.小松原古墳(昭和53年2月指定)

小松原古墳の写真

昭和48年(1973)に、当時の宮之城中学生により発見されました。昭和52年(1977)に発掘調査が行われ、地下式板石積石室墓が7基あることが確認されました。鉄鏃や刀子などが出土しています。

40.紫尾権現跡紫尾山神興寺跡(昭和60年5月指定)

紫尾権現跡紫尾山神興寺跡の写真

伝えによると継体帝(522)の頃,空覚上人が紫尾山(上宮山)で修行中、大権現の夢想により、紫尾権現廟を建て、紫尾山頂に上宮、当地に中宮(高尾野町柴引にもある)、種子田の古紫尾神社を下宮と伝えています。熊野神(伊弉冊尊(いざなぎのみこと)・事解男尊(ことわけのおのみこと)・早玉男尊(はやたまのおのみこと))を主神とし、神興寺の本尊は阿弥陀如来で、寺社巡詣録という古文書で紹介されています。跡地は現在の駐車場付近と考えられます。

41.紫尾山神興寺跡の六地蔵(昭和60年5月指定)

紫尾山神興寺跡の六地蔵の写真

六地蔵塔は、没後、六道の迷いを解くために、寺院や墓地に建てられたようです。幢身に「奉鐫刊 六地蔵聖像干時 文安二年乙丑 卯月 二十四日 座主成春願主忍刊之」と彫られています。鶴田町郷土誌には、六角柱の六地蔵部は紛失と書かれていますが、これは、年号のある六地蔵塔では、県内最古のものといわれています。

42.柏原山下の石塔群(昭和60年5月指定)

柏原山下の石塔群の写真

当地は、祁答院の院倉(郡衙)があった場所との見方もあり、石塔群が澁谷殿と呼ばれていることから、鎌倉時代,澁谷一族の吉岡氏(祁答院氏)が関東から下向して拠点をおいた最初の地と推定されます。弘安3年(1280)の五輪塔や北朝年号の嘉慶2年(1387)等の石塔があります。(平成17年発行の鶴田町郷土誌に五輪塔一基、宝塔三基、笠塔婆三基、層塔残欠などがある。今は3か所に置かれている。)

44.梅君ケ城跡(昭和62年12月指定)

梅君ケ城跡の写真

天正・文禄(1578~1592)の頃、島津歳久の居城として築城され、側室「梅」を住まわせたと伝えられています。島津国史によると、秀吉が曾木へ出立後、小姓が城内の屏風の絵を剥ぎ取ったことが分かり、歳久の命を受けた鎌田囚獄政金が返却交渉に行きました。秀吉は、その小姓の指を切り、絵と共に返したとあります。このことから、秀吉が、この城に宿泊したことが分かっています。

天正から文禄(1578~1592)の頃の島津歳久の居城で、側室「梅」を住まわせたと伝えられています。豊臣秀吉が九州征伐のときに立ち寄ったと言われています。

45.太閤陣跡(昭和62年12月指定)

太閤陣跡の写真

鶴田の再撰方糺帳に「右太閤陣与申伝候鶴田村之内二有之 地頭仮屋元与拾五町斗リ午之方二御座候」とあり、この場所は、地頭仮屋から15町(約1.5キロメートル)ばかり午(南)の方角にあり、秀吉が陣を張り、島津義弘と対面して、大隈の国を安堵した所と伝えています。鳶の巣の陣とも呼ばれたと享和2年(1802)の太閤陣跡とある碑に記されています。

46.竹林寺跡の石塔群(平成2年7月指定)

竹林寺跡の石塔群の写真

鶴田氏が応永8年(1401)の鶴田合戦後、鶴田を去ってから祁答院氏の菩提寺・大願寺の住職が開山していることから、鶴田は祁答院氏の支配下になったことが推定されます。(1420年代)志布志の大慈寺の末寺ともいわれています。

50.興禅寺跡の石塔群(平成8年5月指定)

興禅寺跡の石塔群の写真

古文書に、勘真庵など十一脇寺があり、そのうち、興禅寺は比丘尼寺として独立していたとあります。暦応2年(1339)の創建とされ、澁谷家(祁答院氏)の女の開基と伝えています。「祁答院記」記載の尼僧の墓石や「うはきゅう」(滅罪・成就)の銘刻もあります。

54.蓬莱善福寺跡の石塔群(平成14年9月指定)

蓬莱善福寺跡の石塔群の写真

開基・開山は不明ですが、建武年号(1335)の石塔のほか、阿弥陀仏の銘のある古石や仏像、応安年号(1370代)や善福寺の刻銘のある石塔などが40余基と、五輪塔の残欠が多数あることから、永年にわたる大寺院であったと考えられています。また、応永8年(1401)の鶴田合戦のとき、6か月ほど、島津伊久方の陣営にもなっています。

55.下丁場の磨崖仏(昭和44年9月指定)

下丁場の磨崖物の写真

自然岩壁に彫刻されているこの磨崖仏は、鎌倉時代・室町時代に彫られたものとされています。昭和36年及び41年の2回にわたり大谷大学教授の斉藤彦松氏が現地調査されました。線刻の五輪塔と連板碑が刻まれており、永野城攻めの戦死者の追善供養のために彫られたと言われています。地元では「お不動様」と呼ばれています。

56.長福寺跡古石塔群(昭和49年4月指定)

長福寺跡古石塔群の写真

長福時は鶴田氏の菩提寺であったと伝えられています。この長福寺跡の古塔群は国道267号線の改修工事の用地内にあったので、現在の下手公民館の敷地に移転されました。

60.小永田の笠塔婆(平成6年3月指定)

小永田の笠塔婆の写真

由来不明。高さ1.5メートル、幅50センチメートルの石塔で、「康応二年八月廿二日 一結時講衆各人」と基石に彫られ,塔身の四方に梵時が一字ずつ大きく彫られています。鶴田氏に関係のあるものではないかと考えられています。

61.嘉元の三重石塔(平成6年3月指定)

嘉元の三重石塔の写真

この石塔は大石神社と南方神社の間にあり、三層の石塔で、層塔部に仏を表す梵字が刻まれています。台石は幅77センチメートル、高さ2.15メートルで、「嘉元二年大歳甲辰十一月」と刻まれています。地元では「荒神様」とも呼ばれています。

66.山崎郷御仮屋跡(平成21年6月指定)

山崎郷御仮屋跡の写真

元々は別の場所にありましたが、文化11年(1814)に今の山崎小学校前に移転して明治維新まで続きました。移転したとき植えたといわれる銀杏と御仮屋の門が今も残っており、麓の雰囲気が残されています。

67.久富木法円寺跡墓石塔群(平成31年4月指定)

法円寺跡墓石塔群の写真

法円寺は、文政6年(1823)の「山崎名勝志再撰方調帳留」などに祁答院渋谷氏の支族である久富木氏の菩提寺として記載されています。上段に宝篋印塔1基と、下段に五輪塔や宝塔など18基の石造物が残っています。これらは戦後、埋もれていたものなどが現在の位置に並べられたものですが、塔身に「天正4年(1576)」や「正徳2年(1712)」等の年号が刻まれたものがあります。

68.竪山家の石門(平成31年4月指定)

竪山家の石門の写真

竪山家の石門は総石造りの門で、屋根瓦から木鼻、家紋などの装飾まで精巧に表現されています。造られた年代ははっきりしていませんが、使用されている石材は、現在の薩摩川内市平佐から馬車で運んできたと伝わっています。

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